何も知らない。

本や映画、はたまた生活、、、それらから学んだこと感じたことをアウトプットします。自己中ブログですすみません。

ずれている。

最近、私の人生はずれていると感じます。

 

どこでずれたんだろう...と考え出すと色々な場面が思いつきます。

そこで思いました。過去のことを清算したところで今の私は何も変わらないだろうと。

 

ずれているのは私の考え方だったのでしょう。

今一度心に決めて、コツコツと続けていきます。

 

雨垂れ石を穿つ、しっかりコツコツ。

重み

小林麻央さんの訃報に驚かれた方が多いと思われます。

 

親しかった人の死を思い出す方もいるだろうとテレビを見て感じました。

人の死に際は不思議な気持ちになるものです。

 

私は、祖母の死に立ち会えなかったけれども、

電車の中で祖母のことを思いだしていたところ、母から祖母の死の一報を受けました。

悲しみがすぐには起こらず、悟った気持ちが大きかったものです。

 

葉が赤くなるのを待たずして、大事な人が沢山この世を、そして私のもとを去りましたが、

別れの意味を今一度考えることが必要だと思いました。

 

私は麻央さんに何も思い出はありません。

しかし、この訃報は一語に表すことが出来ない愛の形を

教えてくれたと思います。

 

人の生には必ず大きななにかがあると考えます。意味を持たせた持たせていないに関わらず。

一言ではあらわせません。

芸能人の方はすぐさま発言を求められるので

「残念でした」「誠に遺憾」等、表しますが、

人の死が一言で表せるはずないのです。

 

 

魔法が使えるということは...

魔法が使えるということは、なんでも出来るって認識でいいんですよね???

 

なんでも出来るのなら、まずは私は時間を生み出します。時間は有限ですから、無限になった場合私はまずはイチローを目指しますね。

 

3万時間ほど練習、そして本番も10年ほど経験したい。

 

そしたら私はきっとイチローになれるでしょう。この方法で深みが出るかはわかりませんが。

 

...

 

このように、私たち若者というのはまだまだ出来ると思うのです、やれば出来ると考えています。ただ行動が足りてない事が所以で何をしたいか何をすればいいのかがわかっていないだけなんだと、信じています。その結果まだまだ未熟。しかし、このような考えを成長思考というのでしょうか。

 

とにかく、これからは若者の時代です。我々若者がそう決めつけて世界をつくっていくしかないでしょう。古いシステムでしか活動できない、基礎ができていない、ただそこにいるご高齢様は確かに功労者だが、だからなんでしょう、いらないと思います。右から左に流す仕事は今すぐ消えてください。

 

時間を無駄にしたくない、まだ10年くらいは若い勢いでやれるでしょう。頑張りましょ、若者!

錯覚の科学

「表紙だけで本を判断してはならない。」

うん、たしかにそうだけど、かといって最近のサイトで本の概訳を書いてくれるサイトを見たり、中身をペラーっと見ただけで分かってる気になるのもどうなのよ、と思った。

 

 

本は実際に読んでみないとわからないでしょうよ。どうやら、これはよく人間が陥る錯覚の一種らしいよ。自身少しスッキリした。作者も同じことを思ってる。

 

人間は見えているようで見えていない。意識したものしか見えない。たとえ目を向けていても。この事実を聞かされた時、多くの人間は疑問を覚える。そんなはずないだろう、と。しかし、見えていると思っていたのに、本当は見えていなくて交通事故に遭うのだ。つまり、私たちの感覚、認識と実際に見えている広さや本当に見えている物というのは実に多きな差がある。(これを考えているとき、読書を速くする、何ならすべての理解のために重要なことに気づいた。以前もそのことに関して知ったことがあったのだが、今回は実感できた。またこのブログに書こうと思う。)

 

自分のこと、見えてる?

 

精神構造の変容

こんばんは~今日二つ目の投稿です。

 

最近無性に賢くなりたいなぁって思ってます、理由は、自分て本当に頼りない、無力だなあとつくづく思うからです(^▽^)/

 

賢いとはまず何なのか、色々あると思います。

状況判断が以上に速い人、単純にいい大学に簡単にはいてれしまう人、話が上手な人...

そんな中で私が思う「賢い」人は自分の意見をしっかり言えて、その意見にしっかりと筋が通っているし、聞いてる人も「なるほど」と納得してしまう、そんな話し方が出来る人ですね。ゼミの先生がまさにそんな感じなので、まずは真似してみたいです。

 

私が見てて、先生が意識的ではないにせよ行っていると思うのは、

本を沢山読んでひたすら私たちの前でアウトプットしてますね。

つまりインプットしてアウトプットしてるってことですよね。

私もまずはそこから始めようと思います。

 

 

有言実行 無言実行

かなり久しぶりにブログを開いたよ。

......完全に三日坊主になってんでぇ!!!

 

今までの私はお高くとまって日々のニュースとかに関するアウトプットをしていた(正しくは3日間書いた)のだけれど、もうなんでもいいと思った。

 

本日大学のゼミにて指導者様がこんなことを話してくださった。

「期日ギリギリにやる人ってなんなんだろうね?!理解できないよ?!人が関わってんだから早く処理して早くに見せて添削受けるのが普通じゃないの?!社会に出たら君ら通用しないよ?!うへぇ(´・∀・`)」

 

学生が無駄なプライドを持っていること、自分を過大評価しすぎていることに対してこの人は言及したいのだと勝手に判断しマスター。

 

確かにそこまで頭のいい学校ではない、上から数えたらちょうど真ん中ちょい上に位置しちゃう人達だ。

 

皆意識的に「俺できるんだぜぇ?!えぇ?!」って思ってるわけじゃないと思うんだけど、無意識的に行動に表れているのが先生にとって気持ち悪いんだろうなぁ。

 

あぁ、何言いたいか分かんなくなってきたけど、何を学んだかというと、有言実行は当たり前、言わなくてもやるのは一番いい、宣言しといてやらないのは糞ってこと。

自分はまだまだの精神、忘れないようにしやう。

 

サマルカンド紙

※昨日書いた文章です。

森友学園のニュースを横目に、サマルカンド紙の記事が中日新聞に記載されているのを見つけた。サマルカンド紙とは、サマルカンドで作られていた紙だ。そのままかよ(笑)これはイスラム今日の聖典コーランや細密画に使われた優れた紙である。

今回、そのサマルカンド紙を、日本の手すき和紙の技法によって復元しようという試みが始まったというのだ。2019年を目途に復元を目指すそう。これが実現すれば手すき和紙の技法が注目されるし、サマルカンド紙が復活することで芸術的にも歴史的にもいいことであっていいこと尽くしだ(?)。これらは製紙の技術の話なのだが、私が製紙について耳にしたのは高校の世界史の授業だろう。

 

初め中国で確立された製紙の技術は、7世紀初頭に日本へ。そして751年のタラス河畔の戦いで唐とアッバース朝が戦い、その時に手すき職人が捕虜になったことで西方世界に伝わったとされる。

 

大学生にもなってこの戦いのことを思いだすことになるとは思いもしなかった。偶然のめぐりあわせだねタラス。
手すき和紙とサマルカンド紙も、一度は東西に分かれてしまったけど、この現代にいたってようやく再会できたんだね。本当に愛しあっている恋人たちとか、兄弟、特別な縁がある人たちというのはどんなに離れていても関係ないのだろうなぁ。そんなことをサマルカンド紙から感じた。

 

この兄弟の再会はきっと芸術のさらなる発展となるだろうね。そう願っている。